「サンフランシスコでの新聞記者時代」




1915年、ローズは、夫の元を逃れ、サンフランシスコに向かいましたが、正式な離婚は、それから3年後の1918年でした。
その間、二人は別居を続けながら、比較的友好な関係を保っていました。

1915年のサンフランシスコ博覧会では、マンスフィールドから母ローラが、はるばる大陸横断鉄道に乗って訪れ、二人と一緒に滞在を楽しんでいます。
(ローラのサンフランシスコ滞在のことは、このときの手紙を編集してまとめた本「West from Home」(1974年 ハーパー&ロー社)に書かれています。)
二人は、ローラの感情を害さないように、彼女の前では夫婦の不仲は一応取り繕っておくことにしたようです。
Gilletteは、義理の母親のご機嫌取りに、時たまローズのアパートを訪れ、ローラのほうも、そういう義理の息子に好意を持っていました。
その間のローズの心中がどういうものであったかは、推測することしか出来ませんが、結婚を何とか修復させたいという望みを持っていたGilletteに対し、
ローズは、きっぱりと決別を決意していたようです。
二人が離婚した後、Gilletteは、二度結婚し、二度とも離婚しています。
一方、ローズは、何度か結婚に至りそうな恋愛をしますが、結局二度と結婚することはありませんでした。
前章の「ローズの結婚」で、彼女の「あからさまなものの言い方」が、人の「反感」や「不信感」を買うことがあったことは、述べましたが、
「人を愛する」という点でも、彼女は独りよがりや、情動的な部分もありましたが、一度愛したら、深い愛情を注ぎ、その誠実さは、「高潔」といえるほどでした。
反面、そのような感情の激しさゆえに、一度裏切られたら、二度と信じないということもたびたびで、それは、生涯を通して彼女に見られるポリシーに通じるものでした。


こうして、最終的には約9年間の結婚生活に終止符を打ち、サンフランシスコで新聞記者という新しい仕事に打ち込むことになったローズですが、
このBulletin紙という新聞社で、彼女は生涯敬愛することになる上司の編集者Fremont Olderという人物と出会います。
彼は、それまで売れなかったBulletin紙を、サンフランシスコでも指折りの新聞の一つにまで育て上げた人物でした。
編集者としての彼の才能は、才能あるライターを見つけ出し、彼らが最善を尽くせるように自由にさせてやったということでした。
もともとライターとしてのセンスを持っていたローズでしたが、彼の元で、他の先鋭のライター達に揉まれながら、その才能を開花させていった年月は、彼女の生涯の中でもとても魅力のある時間だったのでしょう。
Fremont Olderの理念は、「リベラル社会の実現」にベースがあったのではないかと思います。
彼が、部下のライター達に書くことを望んでいた記事は、一部のエリートが読むような品のいいエレガントな記事ではなく、貧しい労働者から暗黒街の売春部に至るまで、社会的に弱い立場の人々の声を伝えられるような大衆向けの記事でした。
そして、それは、後に自分の作家活動の中で「自由」「自律」を追求し続け、イデオロギー的には個人自由主義を貫いたローズの理念と強く一致するものだったのでしょう。

ローズはこの編集者の元で、のびのびとライターとしての自分の才能を伸ばしていきます。
以下に挙げるのは、1915年から1918年までにローズが書いた著作物の一覧です。

「The Story of Art Smith」(1915年)


「Henry Ford’s Own Story」(1915年)


「Ed Monroe Manhunter」(1915年)

「Behind the Headlight」(1915年)


Charlie Chaplinの伝記


Jack Londonの伝記


「Myself」


「Soldiers of the soil」(1916年)


「The Building of Hetch−Hechey」(1916年)


「The City at Night」(1917年)


「Diverging Roads」(1918年)




次回では、これらの作品について少し詳しく話したいと思います。


(つづく)