幸田 文

(明治37〜平成2)
東京都墨田区に、父 幸田露伴(小説家)の次女として生れる。
7才で、実母と死別。
8才で、4歳年上の姉を亡くす。同年、新しい母を迎える。
22才、弟を亡くす。
24才 清酒問屋の三男と結婚。 翌年、長女 玉を出産。
34才、離婚して実家に帰る。
43才、父を亡くす。以降、随筆、小説を次々と発表。
69才、小説『闘』で、第12回女流文学賞を受賞。


「幸田 文」という女性をご存知ですか?
もし、知っていらっしゃるとしたら、どのようなイメージをお持ちですか?
文豪「幸田露伴」の娘。随筆家。小説家。
美しい日本語、日本文化に通じた昔風の作家。

どれも、そのとおりだと思います。
でも、私が彼女に惹かれるのは、そういう外側から見た面だけではなく
内側にある「地に足のついた」強くてまっすぐな心です。


私が「幸田 文」という人の名前を初めて知ったのは、中学2年生の時でした。
国語のテスト問題に、ある随筆文からの出題があり、すこしは国語が得意だと思っていた私の自尊心は、その時ことごとく打ち砕かれました。
その随筆文とは・・

『果汁・葡萄糖・牛乳、みな氷で冷やして飲んだが、間に合わないときは果汁の吸い飲みのなかへぶっかきを入れて持って行った。
そのときもそうだった。氷は薄いガラスの容器に当たって、からからと音を立てた。「ああ涼しい音だ。」その顔、まるでただもう子供の顔だった。
―(中略)−
その後幾たびもこのことを思い出す。残念だ、不甲斐ない、たしかに私はあのとき逃げだした。一遍しかない機会だったのに。
「いま重たいもの持ったから。」うそである。うそも早速には、身に近い真実に筋をひいたうそしか吐けないものだ。
−(中略)−「氷?いったい何貫目の氷だね。」「二貫目。」もはやぺしゃぺしゃだった。』
                                                                            −幸田 文 『父』よりー


戦後間もない東京。夏の暑い盛り。すでに病で寝たきりになっていた父を必死に看護している文は、もうすぐ父の死期が迫っている不安からか、氷を浮かべた吸い飲みを父の口に入れようとした時、不覚にも手がふるえだしてしまいます。
父に自分の気持ちを悟られまいと、文が精一杯のうそをつく場面です。

出題の意図は、「行間を読む」ということだったのでしょうが、それまで感情がストレートに現れている素直な文章しか読んだことのなかった子どもの私には、まるで歯がたちませんでした。
彼女特有の言い回し、文章のリズムや間のとり方はもちろんでしたが、そこには直接書かれていない背景が、まさに行間からにじみ出ているようで、「この人、いったい何者?」という強烈な印象を、思春期の心に刻み付けられることになったのです。


写真で見る文の姿は、いつもきりりと着物を着こなしている品のいい日本女性というイメージが強いです。
たしかに、しつけや所作に厳しかった父のもとで、徹底的に内面から磨き上げたれた姿の美しさだとは思いますが、それとはうらはらに、心の中にはさまざまな重いものを抱えていたことも、想像できます。

文には、4つ年上の姉がいましたが、文が8歳のときに亡くなっています。
さらに、不幸は続き、22歳のとき、弟も亡くしています。
この姉と弟は、父 露伴のお気に入りでした。
最愛の子どもを二人も亡くし、残ったのは出来の悪い娘一人という思いからか、常に父 露伴は文をなじり、そのしつけ方は容赦ありませんでした。
結婚前の娘に母が教えるような事はすべて、父から教わったといいます。
掃除、洗濯、炊事はもちろん、化粧の仕方、挨拶の口上の述べ方までみっちり教えられたそうです。
その後、文は結婚しますが、10年で離婚し、長女の玉を連れて露伴の元へ戻ります。
今度は「出戻り娘」として、肩身の狭い思いをしながら、玉と共に露伴の世話をする事になります。

玉(現在は青木玉、随筆家)の著書『小石川の家』には、こんな一文があります。

『猿に芸をさせるには、いろいろな小道具がいる、祖父という大猿に必要な手廻りの品を猿引き道具といった。即ち母はあや猿、私はタマ猿である。』
普通なら「かわいい」孫娘にあたる玉にも、露伴の容赦ない躾は続きます。

「弱即悪、愚即悪」、言い訳無用と
鬼のように厳しい露伴でしたが、彼自身も子どもの頃からとても苦労してきたようです。
露伴の作品は、あまり読んだ事がないのですが、唯一『努力論』というのを読んだ事があります。
「精神の修養」「自立自助」という意味で、自らにも厳しかったのだろうなと想われます。

そして、そんなに厳しくしつけたのも、自分が身を持って体得してきた事を、子や孫にどうにかして伝えてやろうとした親心の表れなのでしょう。
けれど、教えてやろうとする相手が、自分の意のままにならないことに腹を立て、すぐにかんしゃくを起こすのは、志の高い人にありがちなことですが、
教えられている側からすれば、単に「怒られている」ことだけが意識に残り、被害意識が強くなっていく事も事実です。

同じく『父』という作品の中にこんな一文があります。

『父は私を量りつくしてもはや諦めているという様子が見えていた。父はあきらかに優秀なものには特別な愛着を示し、出来の悪い近親より出来のいい他人の子は
尊ばなくてはいけないし、且つかわいいと云ったことがあって、私はひどい云い争いをした。これをあいくちに刺されたごとく受けとった私は、ままよ、刺さったままで
一生通じて痛み通そうとさえ思った。』

この一文を読んだとき、私は苦笑いしてしまいました。
なぜなら、わたしもまったく文とおなじ立場だったからです。

子供には、生まれ持った気質というものがあり、どうしようもない部分もあるとは思いますが、長い年月をかけて、愛しみ、大事にすればどのようなものにも変化していってくれるものだと、私は信じています。
私の父はというと、まるで生れ落ちたときから玉のように光る美しい子供を望み、そうでなければ、きっぱりと拒絶して、振り向きもしないという傾向がありました。
このように極端で冷淡な性格が、どうしてできあがったのか、子供の頃には量りかねる部分であり、そのことでひどく苦しんだ時期もありましたが、この歳になってようやくわかってきた部分でもあります。

文と露伴の関係は、私と私の父との関係とはずいぶん違うものだとは思うのですが、共通していることもあります。
それは、父親に対するひたむきな「思慕の情」です。
「お父さんに愛されたい。お父さんに認められたい。」その一念は、たぶん私も文に劣らないものがあったと思います。


文が本格的に文章を書き出したのは、露伴が亡くなった後のことです。
父親にまつわるエッセイなどを次々と発表しますが、そんな文を、世間は回顧録しか書けない「父の思い出屋」と言って皮肉ります。
このことに対し、文はついに「筆を絶つ」ことを宣言してしまいますが、再び作家活動を再開し、今度は自分の体験談で、長編小説にも挑み、数々の文学賞を受賞することになります。

晩年になるほど、文は自分の体を積極的に動かし、各地に飛んではルポルタージュのような作家活動を続けます。
それは、文豪 幸田露伴のお嬢さんとしての自分ではなく、「幸田 文」という一人の人間の「自分探し」のための活動でもあるような精力的なものでした。
そこには、創られた品のいい着物姿の文ではなく、ズボン姿でずんずん歩いていく自然児のような文がいました。
そして、そこには、いつも「弱いもの、打ち捨てられたもの」に対する文の優しい慈悲の目があるように思います。


私が父との関係の中で、ねじ曲げられ自分さへ愛せなくなりそうだった時に、かろうじて自尊心を取り戻させてくれた文に感謝して、これから少しずつ彼女の作品を紹介していきたいと思っています。


(つづく)